True Colors この國の象

各地の伝承や神社の縁起から、本当の日本史を探ります

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 出羽三山神社蘇我馬子に篤く敬われていた

2015年10月16日、東京・王子の飛鳥山公園内にある野外舞台で、故郷の鶴岡市(山形)に伝わる黒川能が上演されます。

 http://asukayama-takiginou.jp/

観阿弥世阿弥の時代に近い諸相と評され、黒川能は祭事の中の神事能(民族芸能)として継承されてきました。現在の五流のいずれにも属さず独自の展開をしており、後に取り上げますが、そのルーツ(奉納の目的)がじつに興味深いのです。

もっとも、この黒川能が、都からどのように伝えられたかに関しては、いまだ明らかになっていません。

一説に、「第56代清和天皇が黒川に訪れた際(800年代後半)に伝えられた」とか「第100代後小松天皇の第三王子小川の宮が、諸国行脚の途中黒川に入り(1400年前後)伝えた」ともいわれています。

有力な説としては「寛正3(1462)年に出羽守となった武藤氏の関与」なのですが、いまとなっては調べる術もありません。

武藤氏は、鎌倉~戦国時代の武将です。一時は鶴岡、酒田を含む庄内地方において圧倒的な勢力を誇り、出羽三山神社(出羽三山羽黒山、月山、湯殿山の総称)の別当を続けていた時代がありました。驚くべきはこの武藤氏、“蘇我氏の子孫”と称してこれを担っていた事実です。「羽黒山伝」(成立年代不明)や「羽黒山神子之職由来」(1725年成立)には、当時の様が記録されています。

意外にも、ご存知の方が少ないのですが、「出羽三山神社の社殿の柱(写真)は、創建時、蘇我馬子が寄進」と羽黒山伝には記されています。

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以来「代々、社殿の柱は蘇我馬子の子孫が寄進すること」になっていたようです。しかし、歴代別当の記録には、戦国武将の最上家や上杉家の名前も見られ、武藤氏はもちろん、はたして彼らが蘇我氏の子孫なのかは不明なのですが、いずれにしても別当職は、時の権力者により翻弄されてきたのです。

ただ、この庄内には蘇我氏の影が色濃く残っていることは確かなのです。由良地区には、景行天皇の命令で、武内宿祢(たけのうちのすくね/通説では架空の人物とされている蘇我氏の先祖/写真)が白山島を訪れた伝説が残されていますし、少なくとも、鎌倉時代、源頼朝に滅ぼされるまで、庄内は奥州藤原氏の影響下にありました。

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藤原氏は、陸奥国を支配していた阿部氏と、出羽国鎮守府に赴いていた蘇我氏直系の子孫である清原氏をルーツとしています。«蝦夷蝦夷に支配させる»大和朝廷以来の手法を考慮すると、まさしく出羽国清原氏のホームグラウンド。つまり古くからの蘇我氏の拠点ではなかったか? と思うのです。

武藤氏は蘇我馬子の寄進を信じていた。蘇我馬子は、この出羽三山神社を篤く敬っていた。とするとこの神社に伝わる蜂子皇子の逸話は、“蘇我氏の迫害を恐れて、わざわざ蘇我氏の牙城である出羽の国に身を隠した”ことになり、なんとも矛盾した内容となるのです。

 この國の象(カタチ)

我が国の古代史は、さながら迷宮といえます。

一つの視点から文献をあさり、“ようやく道筋を理解したか”と安堵もつかの間、一歩脇道に外れると、来た道が解らなくなってしまう……。

蘇我馬子は、本当に悪人だったのでしょうか? 彼は、崇峻天皇を本当に殺害したのでしょうか? 蜂子皇子は、何を恐れて丹後の由良海岸から船を漕ぎ出したのか? 古代、蝦夷は本当に野蛮な未開の地であったのか? そもそも、この國の創始は、どこにあるのか?(写真は稲穂が稔る庄内平野

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この分野に関心を持ち始めて2年を数えようとしていますが、この國の象は見えたかと思うと、すぐに霧に包まれてしまう。まだまだ私は、真実から遠く彷徨しているにすぎないのかもしれません。

もともとは自身のルーツ探しのために、地元神社の縁起調査から始まったこの作業が、いまや日本という国家規模にまで対象が膨れ上がってしまいました。

私の出身は工業系ですから、古代史の調査など、まったくの素人です。しかし庄内を見渡してみると、興味の尽きない記録(歴史的遺産)が多く、これらを解き明かすことが、先祖からの、何かしらの期待に応えることのように思えてならないのです。

はてさて、それではどう調べるか?

幸いにして先人たちの膨大な研究成果が、インターネット上に残されていますが、読めば読むほど奥が深く、頭がクラクラします。私が、同じ作業を最初からやるなど、とんでもありません。

そこで! です。様々な文献の整理を兼ねて、これらのサイトの一つひとつを「点」として扱い、どのような線で結び付けられるか? を考察することにしました。表現は悪いですが、一言でいえば«良いとこ取りのズルイやり方»です。

私の、唯一の強みは人一倍「想像力」が逞しいことかも知れません。また、通説にはまったくこだわりませんから、その意味では«常識知らず»です。しかし、多くの点を通過する線を描けるならば、一つの事実が、きっと浮かび上がるだろうと信じています。

いまの私は、まだまだ文献の読み込みが足りず、知らぬことばかりと自覚しています。ですから一つの推論を立ても、新たな知識(常識?) が重なれば、前言を撤回することがたびたびあるはずです。このサイトを訪問された方には“サイト管理人の未熟さゆえの愚行”とご容赦いただきたい。

残念ながら、ネット上で庄内地方の古代史をテーマとするサイトは多くありません。このblogを通じて、多くの仲間が集うことを願っています。

以下の文章には、わが意を代弁する志が集約されています。blogを始めるにあたり、プロローグに代えさせて頂きます。

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生きる年月を重ねてみて、ようやくわかってきたものが、いくつもある。

豆腐の味わい、新そばの香り、日本酒の粋。そして日本の本当の姿……。

日本人に生まれてきたことのありがたさ……。

もっと早く気づいていれば、人生どれほど豊かだっただろうとも思うが、それはないものねだりというもの。今こうして、日本を愛でていられることに、まずは感謝の気持ちを忘れまい。それにしても、日本の姿を、われわれは長い間、見誤ってきたのではあるまいか。われわれはこれまで、あまりにも「日本」について、無知ではなかったか。

言い訳は許されてよいと思う。戦後の日本のインテリたちは、日本的なものを一段低く見て、卑下することを美徳としてきたからである。日本の信仰や宗教観を「迷信」「非科学的」と括って鼻で笑い、無視してきたからである。

だが、西洋文明の限界が、目に見える形となって表面化し、危機的状況にある中、ようやく日本人は「日本」に気づき始めているのである。

「ひょっとして、我々のご先祖様たちは、われわれに貴重な財産を残しておいてくれたのではないか」ということである。

だがその一方で「われわれは、その財産を、無駄に放逐してしまった」のである。

西欧人が絶賛した、近代初頭の日本の田園風景は、もはや跡形もなく破壊し尽くされた。誰もが唸った、礼節や美徳を備えた日本人は、義務を果たすことなく権利ばかりを主張する、烏合の衆にとって替わられた。

あきらめることはない。一つひとつ、ゆくりと、「日本」を取り戻していけばよいのだ。

とっかかりは、身近なもので良いではないか。これまで、「取るに足らない」と相手にされてこなかった、すぐそこにある神社や仏寺の「伝承」や「歴史」に、耳を傾けてみることだ。

なぜわれわれは、神社や仏寺に心惹かれるのだろう。それは、まだかすかに、心の片隅に、日本人であることの喜びが、その民族の三つ子の魂が、宿り続けているからだろう。

(関裕二著「神社仏閣に隠された古代史の謎」より/文責はサイト管理人)

 

*文中の出羽三山神社社殿と庄内平野の稲穂の写真は、サイト「まち歩きフォト日記」様のご厚意により提供して頂きました。改めまして御礼を申し上げます。